竹の谷蔓牛
岡山県新見市
竹の谷蔓牛活用推進協議会
vision
歴史を正しくたずね、新しい時代に即応した
蔓の活用や保全を考えて行かなければならない
私たちは竹の谷蔓牛(たけのたにつるうし)の遺伝資源の継承・保存並びに活用推進、
遺伝資源全般の海外流出・散逸の防止、歴史を含めた教育文化継承並びに発祥の地を守り、
竹の谷蔓牛の増頭及び認知を広げることを目的としています。
information
竹の谷蔓牛と和牛の歩み
我が国では古くから輸送や耕作に牛を利用してきました。江戸時代に輸送の主流は馬になりますが、「たたら製鉄」が盛んな中国地方では、足腰が強く背の低い牛が原料や製品の運搬に重宝されました。その中で、輸送や耕作に適する強靭体型で子を多く産み温厚な牛を求めて、1772年頃から備中国阿賀郡(竹の谷)の難波元助が優良牛同士の交配や増殖を始め、子の千代平が蔓(つる)と呼ばれる優良牛系統(竹の谷蔓)を作りました(1830年以降)。その後、岡山・兵庫・鳥取・島根・広島各県で多くの蔓が作られました。
一方、飛鳥時代から利用された乳製品とは対照的に、牛肉を食した記録は少なく、戦国時代にキリシタン大名が牛肉を振舞ったこと(1590年)や、江戸時代に彦根藩が養生薬「反本丸(へんぽんがん)」と称した牛肉の味噌漬けの商品化(1687年)や牛の肥育(1848年)を行ったことが知られています。明治期に、輸送・耕作利用後の牛の肉をすき焼き等で食すことが普及しました。明治末期の約10年間、国内牛の大型化や牛肉消費対応として外国種牛との交配が試みられたこともありましたが、登録制度の整備後、1944年に品種としての “和牛(黒毛和種)”が確立しました。
戦後のモータリゼーションが牛の輸送・耕作ニーズを奪った結果、“肉用牛”としての改良が進められます。牛肉輸入自由化(1991年)を契機に、輸入牛肉との差別化のために和牛肉の“霜降り”信仰に拍車が掛かり、牛の遺伝能力に注目した改良が進みます。その結果、和牛全体が遺伝的に似た集団になりつつあるとの指摘を受けるに至ります。一方、地域の特定系統を大切に受け継ぎ、遺伝的に特異的な希少系統が我が国に極めて僅か存在します。この希少系統は、和牛の遺伝的多様性を再び高め、地球や人に優しい新タイプの和牛生産への活用に役立つかもしれません。
岡山大学教授 舟橋弘晃
竹の谷蔓牛の歴史
竹の谷蔓は天保初年(1830年)岡山県阿哲郡新郷村大字竹の谷(現:岡山県新見市神郷釡村)にて、難波千代平のもと創成された。
安永初年(1772年)の頃、竹の谷に住んでいた難波元助は、隣村の千屋村に住む太田辰五郎と並ぶ富を有しており、その私財を投じて良牛を飼育し、家畜牛の改良に貢献をした。難波家は元助の長男千代平ののち、6代に至るまで、改良に尽力し続け、繁殖に努めた。更に、飼養管理の改善を図るとともに、優良子牛の散逸を防ぐため、付近の農家に同系統牛の飼育を奨めるなど、竹の谷蔓の発達に直接的に寄与し、名声を得たのである。難波家が何代にも亘り、永き歳月と不断の努力を尽くした結晶である。
時代背景
当時の新見市では「たたら製鉄」が盛んに行われ、険しい山道での資材の運搬を牛が担っていた。
たたら製鉄が終わりを迎えると、農耕用として重宝された。その為、人々は扱いやすく、大型で丈夫、長寿で子育ての上手な牛を求め、その市場価値は役牛としてのみに留まらず、農村社会における投資や保険のような役割も担っていた。
蔓牛(つるうし)とは
選択淘汰を行いながら、近親交配により優良形質の強化、固定を行い、同じ特性を遺伝する系統を蔓と言い、その系統に属する牛を植物の蔓(つる)に例えて蔓牛と言う。
家畜改良の偉業
竹の谷蔓牛とは
「竹の谷蔓の後裔ともいえる現代の蔓牛」
50年に亘り、その特性を維持保全しながら現在まで繋いできた牛群
難波元助と千代平
1778年新見藩5代藩主関長誠より表彰された